筆記用ペンのミニ歴史

充填技術は我が社の専門技術の一つで、化粧品や食品、筆記具など様々な分野を手がけています。油性ボールペンは71年前の1943年、ハンガリーでラディスチオ・ピロによって開発され世界に広がりました。その後、水性やゲルインキボールペンなどが日本で開発・発売されています。古代の筆記用具は、アシの茎を使ったのが最初で、古代エジプトではペルシヤの沼地に成育したアシを3月に刈り、6か月間程ねかせて美しい光沢や黄色や黒色のまじった、あでやかな色を出す最高のペンを作ったそうです。アシの次には鳥の羽を使った羽根ペンが登場し、鷲鳥や白鳥、梟や孔雀、ペリカンなどの羽が使われています。その後ペンは金属に変わり、鋼や真鍮、金などが使われ、ペン先には耐久性のあるイリジウムやオスミニウムが使われた”万年筆”が誕生します。

一本のペンにも発展の歴史と進歩、そして技術の宇宙が詰まっているのが見えてきます。

まち工場の石鹸

現場で手についた油を落とすのが一苦労で、先代の渡辺が手荒れをせず油汚れを落とす石鹸を求めて開発したのが「ハネダクオリオ石鹸」です。

現場の悩みから生まれた石鹸の歴史をたどると、紀元前58年~52年のローマ時代にガリア人(現在のフランス)が、山羊の脂肪とブナの木の灰から石鹸を発明したと言われています。石鹸はSapoと呼ばれ、ドイツ語のSepeが語源で現在のSAVON(仏)になったのでしょうか。ラテン語の本では石鹸は牛、山羊や羊の脂肪と生石灰より強められた灰汁との混合物から作られ、イタリアや東洋ではシャボン草の根に石鹸質の液汁を含んでおり着物や毛織物を洗濯するのに用いられたと書かれています。また、酸性白土が「布さらし職人の白い粉」として使われ、国の名前を付けた「キオス島の土」、「サモスの土」と呼ばれ「襟洗濯用の土」もあり、土の色によって「黄色い石鹸」や「黒い石鹸」、「褐色の石鹸」と呼ばれていたそうです。なぜか、シャボン玉の夢が広がりそうな気がします。

科学と技術の協働

米デュークス大学教授ヘンリー・ペトロスキー著「エンジニアリングの真髄」(安原和貝訳・筑摩書房刊)を東京大学教授・佐倉統先生が書評を書かれていました。「科学は、自然の謎を解明する”知る”活動だ。対する技術(エンジアリング)は、何らかの問題を解決する営み。そのための便利な道具や解法を”作る”ことである。環境問題やエネルギー問題など、現代の難問を打破するためには、しばしば”科学的方法”が重要とされるが、大事なのは現実解を見つけるエンジニアリング的発想と方法である」と、科学と技術の違いについて紹介されています。

科学が上位で技術は格下と思われてばかりとか、基礎研究から応用研究と直線的に進むものではないとも論じています。本書の副題は”なぜ科学だけでは地球規模の危機を解決できないのか”とあるように、私たちの小さな商品開発も常に科学を技術で裏打ちし、技術を科学で実証する作業の連続で、示唆に富んだ指摘だと思っています。

暮らしを支える”ロボット”

「ロボット」の言葉の響きに心が躍ります。

私たちが作る精密機械も実は「ロボット」です。サイボーグやアンドロイドと呼ばれる人型ロボットではなく、工学上の定義で「目標・目的を与えた際、自動で与えられた目標・目的を実践する機械」と呼ばれるものです。路上にある「自動販売機」も工学上、ロボットです。

このロボットの名称は、現チェコの作家カレル・チャペットが1921年に発表した戯曲で使ったのが最初で「強制労働者」という意味のチェコ語ロボット(robotd)に由来する造語だそうですから、微妙ですね。

宇宙ステーションから若田船長がロボットと会話する映像が世界に配信されましたが、今ロボット産業が世界で注目されています。神奈川でも「さがみロボット産業特区」が設定され、暮らしを支えるロボット開発が推進されています。手足のリハビリや介護、家事や会話、放射線量無人測定とロボット産業は無限に広がっています。蒲田テクノロジーもロボット産業を支える一員です。

子どもの頃の遊びから生まれる科学技術の芽

世界で通用する科学者・技術者を目指す高校生の「科学技術チャレンジコンテスト」が開かれ
富山市立高岡高の林靖人さんが『ダンゴムシ』の研究で文部科学大臣賞を受賞しました。

子どもの頃よく遊んだ、すぐに丸くなるあのダンゴムシが
障害物にぶつかると左右交互に曲がるこれまでの「交替性転向反応」という定説に疑問を持ち、
観察・研究を続けた結果、障害物に接触した触角と逆向きに曲がることを発見しました。
林さんは、「分からないことを分からないままにしておきたくないから」と語り
夢は生物学者だそうです。

京都市立深川高の三宅浩一郎さんは『泥団子』の研究で朝日新聞社賞を受賞しています。
なぜ泥団子が球形を維持できるのか。泥の粒子の大きさや水分量から、最も硬い泥団子をつくる条件を調べています。
その研究応用は土砂崩れを防ぐことに役立つかもしれません。

科学技術の進歩は、小さなヒラメキや興味や粘りから生まれる”日進月歩”の力なのですね。

小惑星探査機「はやぶさ」のミッションに学ぶ

日本の小惑星探査機「はやぶさ」は、小惑星イトカワに2006年11月着陸してサンプルを採取し、総飛行距離60億kmの旅を終え、2010年6月13日地球に戻って来ました。幾多のトラブルに巻き込まれながら7年間飛び続け、オーストラリアの砂漠にカプセルを投下し、流星となって燃え尽きミッションを完遂したドラマは、技術者だけでなく国民に感動を与え、世界の人々も日本の技術を賞讃しました。

「はやぶさ」の目指した小惑星イトカワは、日本のロケット開発の先駆者、糸川英夫博士の名前を刻んだ惑星です。1955年にわずか23cmの長さと重さ200gの固体燃料を用いたペンシルロケットが、宇宙へのスタートでした。

精密機械の枠と知識を集めた技術国日本の「はやぶさ」は、流星となってその使命を次につなぎましたが、私たちの技術も”下町ロケット”のように皆さまのお役に立つ技術としてのミッションを持続したいと思っています。

 

夜空に輝くダイヤモンドの星

精密機械作りの中で「研磨」という作業はとても重要な仕事で、研磨には人工ダイヤモンドが活躍しています。工業界の中でもダイヤモンドは高価な素材ですが、このダイヤモンドが大量に存在する惑星があることが分かってきました。

2012年「アストロフィジカル・ジャーナル・レターズ」誌に、40光年離れた「かに座55番e」という惑星は主に炭素で出来ており、大量の炭素がダイヤモンドを形成している可能性があるというのです。この惑星の大きさはわかりませんが、惑星の地層の3分の1がダイヤモンドだろうと推定されているそうですから驚きです。また、天王星と海王星にもダイヤモンドの層が存在するだろうとの論文も発表されており、宇宙は”宝の星”ですね。

夕日、朝日を見る子どもたちが少なくなったと言われていますが、親子で夜空を見上げながら遙かな宇宙にロマンを感じる時も欲しいものですね。

日進月歩の「大田の工匠たち」

大田区の町工場で施盤工として現場で50年働き、一方で作家としても活躍される小関智弘さんが

先進技術立国、日本の飛躍を支える大田区の伝統を受け継ぎ
いまの技に挑む小さな工場の夢ある工匠たちの物語『どっこい大田の工匠たち』を出版されました。

大田区には、従業員3名以下という小さなものづくりの場に光をあてて、そこで働く卓越した技能者を”現代の名工”とし「大田の工匠100人」の名で、5年間で103名の工匠を表彰する制度があります。その内から15人の工匠のハイテクと最先端技術と呼ぶものではないのですが、ものづくりの最前線で生きる人たちの技に光をあて、本書で紹介しています。

当社とご縁のある、蒲田で江戸切子の伝統を守り抜かれている東亜硝子工芸の鍋谷馨さん、聰さん親子も生き生きと描かれており、とても誇りに感じています。

「大田の工匠100人」は、まさに”日進月歩”の匠集団で、世界の先進技能を支えているのだと強く感じています。一読をおすすめします。

【参考文献】
小関智弘『どっこい大田の工匠たち』 現代書館

“蒲田チーム”の団体戦

2001年、有機合成の研究でノーベル化学賞を受賞された野依良治先生は
《頭脳・大循環時代》と称したインタビューの中で

『科学はガラパゴス化を脱して、多文化を融合させ、知の団体戦に挑め』

と、語っておられました。ガラパゴス化とは、世界の潮流から取り残され独自の進化を歩むことですが、今や科学技術の発展には個人戦ではなく団体戦が必要で、多様な価値観や文化を融合させて新しい革新(イノベーション)が必要だと説かれています。

私たちの 蒲田地域は、技術と知恵が集積した団体戦の世界です。お互いの利点や違いを知りながら共通の価値観をつないできた先進的な地域で、規模を誇るのではなく、国家の利益を乗り越え、友人、仲間として多層的な人間関係を築きながら荒波に耐えてきた強さがあると思います。

我が社も誇りある蒲田の団体戦の一員として

“一人の一歩より百人の一歩”

を大切にしてまいります。

「産業革命」と”働く”

1747年にフランクリンが電気を発明し、
1764年に紡績機が、
1767年にはワットの蒸気機関が改良され、
1770年頃からイギリスが産業革命期に入り、世界は急速に発展していきます。

この産業革命以降時計の普及によって、時間という概念に変化が生じ
人が提供した時間の価値によってお金を得る「雇用」(JOB)という関係が生まれ、今日に続いています。

もともと私たちは、自分のために 畑を耕し 作物をつくり 糧を得るために「働く」(WORK)ことによって価値を生み出し、お金を得てもきたのです。

「雇用確保」なのか「働く場の創造」なのか迷いますが、
私たちは”ともに働く仲間”であり決して”働き手”ではないと思っています。蒲田というまちも、ともにみんなで”働くまち”だと感じています。

しかし、急速なデジタル社会に入り、時間が無時間性になり、「働く」にも新しい常識(ニューノーマル)が必要になって来ているのかも知れません。